映画における娯楽と表現の両立
映画とはアートか、エンターテイメントか。
答えは「そのどちらでもある」です。
写真とはアートか、記録か。という問いを投げかけてもきっと同じ答えになりますよね。
すべての作品がどちらでもあるとは言えず、片方のみが成り立っている状態でも良いのですが重要なポイントが一つあると思っていて。
それは、この2つが高い次元で両立された時に、その作品は一つを突き詰めただけでは到達できない領域に位置することができるということです。
娯楽に振り切ろうと思えば振り切れる部分があったはずなのに、表現も両立させたような作品たち。人間をはじめとする対象への深い考察や愛を伴う作品たち。社会や何かへの問題提起をしている作品たちなど。
例えが適切かわかりませんけど、これは水と油を乳化させることでおいしいペペロンチーノを作りましょう。みたいなハックに近い印象です。
近年のハリウッドにおける監督起用においてもそういった傾向がみてとれるようになってきました。
例えば、シャーリーズ・セロンをアカデミー女優賞に導いた、実在した女性連続殺人犯を描いたモンスターという映画を監督したパティ・ジェンキンスという方がいます。
中々衝撃的な映画で、当時まだ10代だった自分にとっては忘れられない作品だったのですが、これは彼女にとって初の長編映画デビュー作だったそうです。
そして恐ろしいのは、およそ15年後、彼女は第二作としてワンダーウーマンというアメコミ映画の監督をしたことです。
このワンダーウーマンは、過去の映画作品における良いところをこれでもかと詰め込んだ、ヒロイズムとアクション、ロマンスとヒューマンドラマすべてが盛り込まれたような笑いあり涙ありのとんでもなく面白い作品に仕上がり、素晴らしい興行収入を得ることになりました。
さいきん2が公開されたことも話題になってましたね。
何が言いたいかというと、モンスターのような表現活動を重視した、いわゆるアートに近いフィールドで評価を得た監督が、15年の歳月を経て第二作目にこのような対策に起用されるには、プロデューサー陣にもおそらくエンターテイメントとアートをハックしようという試みがあったのだろうと思います。
同じように、アベンジャーズシリーズで公開予定のエターナルズという作品があります。
アベンジャーズシリーズといえば、潤沢な予算で星を飛び交いビルを破壊して街を破壊して、エンターテイメントの極地とも言えるようなシリーズ作品ですが、その新作であるエターナルズを監督するクロエ・ジャオ監督は、先日ノマドランドで監督賞も受賞した人物です。
ノマドランドでもそうですが、クロエジャオ自身は役者ではなくそのあたりの一般人に演技をさせることで絶妙なリアリティを表現してきたような監督です。
カメラワークなどのディレクションや、キャスティングなども踏まえて彼女なりのリアリズムを追求している側面があるのだろうと思いますが、まさかアベンジャーズシリーズを撮るとは想像もできないですね。
これは町山智浩さんも言ってましたが、これまで低予算で映画を作ってきた両監督で、それまでとは桁違いの予算を与えられて、それを使おうというのだから監督としても使い方すらわからないわけです。
普通は次第に予算もあがって出来ることのリアリティが増えていくといったキャリアパスだと思うのですが、そうではない事がハリウッドでは起きている。
それはつまり、エンターテイメントとアートの両立を意図的に図ろうという潮流と言えるのではないかな、と。意図的に乳化させようとしている。
「予算の使い方や、クリエイティブ以外のところは私たちがやりますよ、なのであなたはアートとエンターテイメントの両立に全力を注いでください。」
そういうプロデュースがなされていて、そのためにパティ・ジェンキンスやクロエ・ジャオのような起用が行われているのだろうなあと。
これらの答えにたどり着くまでのヒントは、当然映画の歴史の中にあるわけですが、自分が知る限りだとクリストファー・ノーランのダークナイトシリーズ、というよりダークナイトが大きなターニングポイントかな?と。
重厚なヒューマンドラマとエンターテイメント性が両立されており、クライム・サスペンスによることも、ヒューマンドラマによることもなく、それぞれ適度なバランスで成り立っている。
これはクリストファー・ノーラン監督自体が、ダンケルクのような史実をもとにしたドラマを描き切りながらインセプションのようなエンターテイメントを描くことも可能にしている世紀の天才だからなのですが。
もう少し遡ると、これは作品というよりは個人になりますが、クリント・イーストウッドも連想されますね。
プレイヤーとして西部劇をはじめとしたエンターテイメントに身を置きながら、
・許されざるもの
・グラン・トリノ
・パーフェクトワールド
・ヒアアフター
などなど、表現活動や人間への深い考察、そして第三者的に静かで心地よい距離感の映画を撮っている監督なわけですが、エンターテイメントとアートの両立を感じるんですよね。
そして彼も15時17分、パリ行きなどでは演技の素人というか、実在の事件をもとにしながら実在の事件で本人役として起用するなど考えられない取り組みをしたりもしています。クロエ・ジャオを連想させますね。まあ彼のほうが早いですが。
自分が好きな映画も、エンターテイメントとアートの両立を感じる作品がほとんどを占めています。
娯楽と表現活動が両立しているもの。どのような表現であってもよいのですが、映画の背景にステートメントを感じるような作品であり、それが娯楽になっているようなものです。
まあこれは映画に限らないかもですが、そういうものが好きなんですよね、単純に。コロナで映画の制作スピードも落ちていると思うんですが、こういう作品がもっと増えると良いな〜と。
で、最後に話を一気に飛躍させてしまうのですが、こういった乳化を求める活動。異文化の掛け算。異質なモノを練り込んで両立させる力。こういったものがこれからの時代どんどん求められてくるし、それを実現している人や作品が評価される世界になるのではないかと思っています。
フランスヨハンソンは、そのような効果をメディチ・エフェクトと呼びましたが、写真のような掛け算しやすい、掛け合わせがしやすいメディアにおいても同じような事が言えるな〜と思っていて、こういう世界の潮流を自分のビジネスや人生に当てはめることができないかな、というのは常に頭の片隅にあります。