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呟きはどこまでいっても呟きだし、誰しも誰かを傷つけようとは思っていない。

学生時代からユーザーとしてインターネットには慣れ親しんでいて、TwitterやFacebookのようなSNSをはじめとしたウェブサービスも、仕事柄とりあえず手を出してみるという感じでなんでもライトに利用していたのですが、写真を通してそこそこの方に呟きを見られるようになって、一つ呟くにあたっても色な々考えがよぎってくるようになった。

基本的に、「言いたいことを自由に言う!」というスタンスである自分ですらこのように感じるレベルなので、繊細な方や他人からの目を気にされる方なんかは、もっと早い段階で同じことを感じているんだろうなと思います。

どういうことかというと、「呟き感覚」でその場の気持ちを書くのが難しい。

例えば先日、雪が降っているので「雪の中で誰かを撮影したい人生だった。」と呟いた。

しかしこれを呟きながら心の中では実際のところ、「撮影したいと願うくらいならすれば良い。言ってるだけじゃなくて行動しろ」とも思ってる。同じように思っている人もいるだろうし、それを見て「黒田は何を言ってるんだ」と思う人もいるだろうと思う。

でも「待って〜、実際オレもそう思ってるんだ〜」なんて事をリスクヘッジするためにいちいち前言い訳するのも、なんか違う。説明的に書くのはもはや呟きではない。呟きは、ただ単に垂れ流したいだけなの。

なんとなくわかりますか?この矛盾。

写真に関してもこういう事はたくさんある。
「このレンズは素晴らしい!」と思いながら、各誌面やインタビュー、メディアなどに書く一方で、「機材は何でも良い」と思っている。

しかしそれを誰も傷つけず誤解のないように言おうとすると、Twitterの文字数では足りないし、となる。

「このレンズは素晴らしいが機材はなんでも良いと思っているので好きなものを使ったらいいと思うけどこれはあくまで僕の意見であって、みんなが真似する必要はないしそもそもこのレンズを良いと思っているポイントは僕の主観や価値観に基いているので、人によってはこの利点が利点ではないかもしれないしそこまで価値は感じないかもしれない。どちらの場合にしても大切なのはレンズが何かよりも何を撮ったかという事なので繰り返しになるけどレンズはなんでも良いと思う。あ、でも中には何を撮ったかよりも如何にフレアやゴーストを出さずに歪みもなく商品を撮影したいという人もいると思うので、そういった場合にはやっぱり素晴らしいでしょうね。そもそもレンズを作ってくれているメーカーの方々のことを考えれば性能が良いとか悪いとかで判断するのは失礼だとも思う。適材適所なわけで性能的なアドバンテージがなくてもコスト的な利点がある場合なんかは、プロダクトとしては素晴らしいと思うし、全てはみんなが頑張った結果なのでレンズをオレが素晴らしいと思おうが思うまいがこうやって製品がきちんとプロダクトとして世の中に流通しているということは大変素晴らしいと思うし、これも日本という国が平和であるおかげで戦争反対。」

調子が良ければ、ここからよりグローバルな視点も加味され、最終的には銀河系の話にまでつながっていくようなきがする。

このように自己矛盾だけでも、苦しくなるポイントがある。

でも、個人的にはですね、人間は矛盾を内包した生き物だと思ってるんですよ。

色々な相反した思いや、その時々の気持ちを抱えていている。ある側面だけをみたときに崩壊している論理的整合性があっても、大して神経質にならずに、そっと電子社会に、一掴みの心情を投げ込めたらそれが一番。そうしたい。

自分はあまり揚げ物が好きではないので、揚げ物は好きではないと友人たちに言っているが、たまにコロッケを食べたいと思う時もある。そしてそんな時こそ「コロッケ食べたい」という普段なら決して呟けない願望を呟きたいが、「揚げ物きらいじゃないのかよ、嘘つきか!」という想定しうる反応を考えると、「普段は揚げ物好きじゃないけど、今日は珍しくコロッケ食べたい」と書かなければならない。

SNS疲れという表現を見る時がある。これがそのケースに当てはまるのかは知らないけども、疲れなのかもしれない。SNS疲れなんて自分には無縁だなと思っていたものの、まさか感じる時が来るとは。とは言え、疲れたところで立ち止まるわけではないのでこのレベルではそこまで活用に差がでるほどの問題にはならない。

しかしこういった自分の想像力との戦いには、まだ先がある。

エクストリームモードでセンシティブなシチュエーションが。

それは、ふと思ったことでも何でも良いけど、持論を展開すると、思わぬところで誰かを否定してたり傷つけていたりするケース。

まあこれは想像が容易だと思うので良いでしょう。

次は、クラスタの違う人々がつながっているので個人的になんか気を使った喋りをしないといけないケース。

つまり、それぞれのクラスタにとってそれぞれの自分がいる。

例えば自分の場合は、フォロワーの中にフォトグラファーとして遥か高みにいる先輩方もいれば、自分のセミナーへと何かを学びに参加してくださる方まで多種多様。

これは、先輩方からみるとなんだか最近色々やってる新人類的な黒田がいて、受講者方からみると、なんだかすごそうな黒田がいるわけです。こうした場合に、片方を意識して書いた内容が片方を刺激する可能性があるんですよ。客観的にみると中間に位置するので、そういった現象が起こりえます。いや、正確と言うとなにも問題なんか起こらない可能性のほうが高いです。ただ、自分が何か両方を意識してしまう。実際のところ、両者とも黒田の発言なんかは気にしていないでしょう。

でも当事者である黒田は、だからといって無視できない。自分はストレス耐性はある方だと思いますが、謎の想像力で起きたらどうしよう?という反応を予想してしまうので、それが合ってようが合っていまいが、自ずと筆が止まってしまう。これが意外と問題。

うまくブランディングをして人間関係もコントロールして、確固たる自分という存在を電子世界上に表現するというアプローチもあるのですが、これにはそれなりの努力と浸透までの活動が必要だと思います。それに、電子世界のためにあるべき自分を曲げるというのはナンセンス。自分はそういったセンスもなければ、活動の経験が長いわけでもないので、ちょっと怯えながらやっている部分があるのです。

そうこう考えていると何も呟けなくなってしまったり、当たり障りのないことしか言えないんですよね。

SNSをマーケティングのツールとしてもうまく活用している人たちは、自分のポジションを確定していることが多いので、このあたりをうまくやっている印象。

自分はそういうの徹底してできるタイプではないので、さいきんはそういう人をフォローして少しずつ学んでいます。


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Akiomi Kuroda / 黒田 明臣
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