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クリエイターと道具市場のジレンマ、そして予算構造の抱える問題

こちらのつぶやきに引用リツイートで返信しようとしたら長くなったので記事にします。おにやんま食べながら呼吸のように呟くのを心情としているのですが、こうして真面目に読んでくださる方もいると考えると、なんかもうすみませんという気持ちです。

せっかくなので言いたかったことを少しまとめてみます。タイムラインのツイートに触発されて書いているだけなので、該当するとおぼしきツイートが真に何を問うているかとか、何に対して言及されているのかとかは正直よくわかっていないので、あまりそこは気にせず、以下のテーマで読んでいただけると嬉しいです。

クリエイターと道具市場のジレンマ、そして予算構造の抱える問題

大きく二つありまして、一つは予算構造の問題、二つ目はクリエイターと道具市場のジレンマです。

ヒーコで使っているフレームワークですが、この手の広告構造は、大きく三つのプロセスにわかれています。

  • A かんがえる

  • B つくる

  • C とどける

ちょっと頻出するので、それぞれABCとしておきます。

 「かんがえる」

どのような形で市場に商品を届けるか、つまりCMを打つとか、サイトつくるとか、YouTuberとタイアップするかとか、インフルエンサーに商品渡すかとか全部やるか、とか、どのように届けるかとか、何を作ってもらうかといった大きな5W1Hを決めるパートです。自社で行う場合もあるし、専門のプランナーやマーケターがいる場合など様々。いわゆる上流工程的なものです。

「つくる」

つくるパートというのは、サイトをつくったりコピーをつくったり写真とったり映像つくったり、いわゆるコンテンツを用意するところです。私の記事を読んでいるということは写真関係者が多いと思いますが、フォトグラファーなんかはこのパートで専門性を発揮している人であることが多いです。ここが一流になってくると、つぎの「とどける」パートでも付加価値を発揮することができるようになってきます。

「とどける」

とどけるパートというのは、市場に届けるところを指します。Google 広告でお金払ったり、交通広告にお金払ったり、テレビ局にお金払ったり、インフルエンサーにタイアップしてもらったり、雑誌やメディアの役割です。ちなみにこれをメディアプランと言ってます。

予算構造の問題

ひなたぼっこ

「それぞれのプロセスを誰が担うか?」は、案件の規模や性質、企業の体質やリソースによって多種多様なわけですが、例えば大規模なプロジェクトだと、つくるパートは大手制作会社にお金を払って、とどけるパートはテレビ局にお金を払ってCMを流してもらったり、鉄道会社にお金払って交通広告になったりしてるわけですよね。

可処分時間の消費方法が変化

インターネットもスマートフォンもない時代は、人々は街に出て時間を消費したり、電車に乗っていて時間を消費していたわけですが、この10年で人々が時間を使う場所が多様化してきました。

その一方で、企業の広告予算が増えたわけではない(ここ重要)ので必然的にあたらしい場所に割ける予算は少ない(何なら従来の予算から削って捻出してる)。

クリエイター2.0(仮)の台頭

そういった時代の変化と現実を、このフレームワークでYouTuber とかインスタグラマーと呼ばれる今回スポットライトを浴びている人たちに当てはめてみると、BCのパート、つまり「つくって届けられる」人たちということになります。(仮にクリエイター2.0と呼んでいる)

これまでAのスペシャリスト、Bのスペシャリスト、Cのスペシャリストにそれぞれお金を払っていたものが、クリエイター2.0(仮)に払うだけで文字通り一石二鳥を成せるわけです。

その上で、前述の通り全体予算が希薄化している状況においては魅力的に感じられるというのはまあ想像できますよね。

これが予算構造の問題です。正確には問題というより状況なんですけど。

クリエイターと道具市場のジレンマ

窓と島

もう一つが、クリエイターと道具市場のジレンマです。

ここは自分がこの業界に入って学んだ点でもあり、絶望したと表現した点でもあります。

あえて漠然と安っぽい表現をしますが、クリエイターがクリエイターとして"大きい仕事"を担えるような唯一無二の存在に近づけば近づこうとするほど、言葉による説明ではなく作品で語ろうとしていく傾向があります。

この理由はもう少しブレイクダウンして説明することもできるのですが、ここでは割愛します。まあなんとなくイメージできますよね。

良き選手が良き師とは限らない

つまり、クリエイターとしての純度を高めていくということは、つくるプロセス(B)への道であって、とどけるプロセス(C)への道とは本質的に異なるわけです。

Bを極めた人たちが、Cの機能も備えていることは稀なので、実現する場合には優れたプロデューサーや編集者によって仕立てられる必要があります。Cを極めた人がBの専門家になれるとは限らないのと同じですね。

最初から YouTuber を目指すということは、BCの両立を目指すということを意味しますし、そう考えると前述した予算構造の問題もあり、B特化よりもCを両立可能なクリエイター2.0(仮)に仕事が増えて、Cの機能を保有しているがゆえに目立っていくことは、ある種の必然ですよね。BCを目指す人が増えることも理にかなっています。BCを目指す場合は、それぞれの専門性がそこまで高くなくても活躍できるという点も今は言えるかもしれません。

それ自体は時代の正当な変化で、この構造に関与したいのであればどの立場であっても目指す道に向かって自助努力を怠るべからずというだけの話です。

余談ですが、まずCに特化した上で、Bの練度をあげていくといったケースも増えてきていますし、Bに特化している方がCの練度をあげていくケースも増えています。

ジレンマとは

そのうえで悩ましいのが、クリエイターと道具市場のジレンマです。道具市場、これはつまりカメラとかレンズとかモニタとかパソコンとかフライパンとか包丁とかペンとか。道具に関わる市場のことを言ってます。これが専門家も趣味層もどちらも活用するような類のものだと、このジレンマに陥ります。

  • 専門家は、その道具が優秀なBにとってどうなのか知りたい。

  • 趣味層は、ABCの何も目指してないので、単純に情報が知りたい。

企業視点では、自社の商品が専門家を対象にしているのか、それとも趣味層を対象にしているのか、もしくは両方を対象にしているのか、前者と後者のどちらがボリュームゾーンかを見極める必要があります。

そうなると多くの場合は趣味層が大多数(ですよね?)で、専門家は少数派なんですよね。

更に、つくるプロセス(B)で活躍する専門家は、専門家ゆえにリテラシーも高い傾向にあるため、企業がとどけるプロセス(C)で努力しなくても積極的に情報を摂取しに来る傾向があるというのもこのジレンマを後押ししています。

専門家の期待

あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"

「何故、上田義彦さんがGRの機能遡及をするトークショーがCP+では行われないのか?」とか、「何故、上田義彦さんはGR が発売されたときにYouTubeチャンネルで製品紹介しないのか?」といった疑問を持っている人少ないですよね。きっと。(え、いる?こないだ某コハラさんは同じようなことを言ってて親近感ありました)

とはいえ、上記の疑問は自分がこの業界に入るまでずっと疑問に思っていたことでした。よくよく考えるとBのスペシャリストである人が、Cのスペシャリストとして機能することの方がもはやおかしいのです。(考えてみれば当たり前なのだがそんなことにも気づかなかった)

それでも専門家の意見を聞きたい 

はい。というかもう、

「知りたい。めっちゃ知りたい。」

このように、「専門家を目指す私としては上田義彦さんがGRを使ったらどうなるのかが知りたい」という人は少なくないはず!上田義彦さん大好きな自分としては、無邪気にそういう場があったらいいな〜とか考えてましたけど、たしかに上田義彦さんが魅力的なスピーカーとしてGRの良さを言葉でプレゼンテーションできるとは思えませんし、企業側もそれは期待していないのは理解できます。

なので、上田義彦さんが撮った写真(Bのつくるプロセス)を、活用してカタログにして販売代理店に設置したり、ウェブサイトに掲載することで世の中に届けたりすることが一般的です。

例えばこういう取り組みです。

B つくるプロセス
カタログや作例をクリエイターとして制作している。

C とどけるプロセス
インタビュー形式の第三者視点コンテンツ。優れたプロデューサーか編集者が仕立てているケース。

つくるプロセスを追求する専門家は、こういうものを求めている。(と思う)

遠回りかもしれないけど、ここで刺さった専門家(と予備軍)が、Bの道を追求して世の中に良いものが生まれていく。はず。

広告業界では「伝える」ではなく「伝わる」コミュニケーションにしようという表現をすることも少なくないのですが、情報として伝える行為に執着するのではなく、自然と相手に伝わっている状態を目指すということを意味します。

説明的なものではなく情緒的なものを目指すと言い換えても良いと思います。


一方ツイートでは、「誰にでもわかるものはラグジュアリーではない」という表現をしましたが、これは月刊コマーシャルフォトで連載しているフォトグラファー生存戦略で、菅付雅信さんとの対談した際に表現されていた言葉を拝借しています。


また、新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義 安西洋之 中野香織 (著)で、美は誰にでも理解できるが、その先の崇高を享受するためには受け取り手の熟達も要求されるといった一節がありまして、その話とも掛けています。

つまり、つくるプロセス(B)の専門家であろうと苦悩する人たちだからこそ感じられる崇高さは、良くも悪くもその道をいかない人にはわからない、わかりづらいのです。つまり趣味層(別にそれが悪いわけじゃないですよ)には「伝わらない」可能性がある。(これはクリエイターやアーティストとエゴの話としてもまたいつか話したいところなんですけど)

情報的にわかりやすいほど、情緒的な価値は失われていく(反比例している)傾向にあるというか。両立させることが不可能ではないもののすごく難しいんですよね。難しいんです。まぢで。

少なくとも企業視点では、こういう取り組みを実現したいと思っても、上司を説得して予算承認を得ることができない、もしくは上司がそれを求めて現場に指示するに至らないということは、結果的に「上司にわかられていない」伝わっていないということで、それは往々にしてあります。自分がお話する例でも、現場の方はすごくやりたいんだけど〜!という事も多々。ビジネスですからね、仕方ない。

情報的価値と情緒的価値

河津桜てきななにか

とはいえ情報的価値と比べて、情緒的価値は定量化することが難しいけども、大きな価値が潜んでいると個人的には思っています。

企業や広告の作り手は、「伝わる」状態を目指して日々四苦八苦しているわけですが、これを意図的に生み出すのは非常に難しい。自分みたいな三流の規模でも苦悩しますから、おそらく一流の規模ではもっと多くの方がもっと深く苦悩しているのでしょう。ここに正解はなくて、重要なのは意志だと思っています。

また、チャネルが増えたことで、「誰にでもわかる」ことのウェイトがあがり、「わかる人にはわかる」ことにこだわることができないケースも増えている傾向にあります。そういう努力をしているのだけども伝わらないという事は往々にしてあるんだろうと思います。

ただ、このジレンマに抗って、市場のマイノリティではあるものの専門家に刺さるブランディングをして欲しいというのは、クリエイターのエゴでしょうか?いいえ、きっとそれ以上の価値があるはず(と信じている)。

自分が好きな企業やブランドは、やはり専門家やつくるプロセスをリスペクトしている印象です。NIKEのマーケティングなんかは一例になるのではないでしょうか。例えば、それらを揶揄してものづくりの会社とマーケティングの会社といった表現がされることもありますが、両方巧みな方が良いに決まっているし、片方にバランスが傾いていたら、その均衡を保てるように支援したいとも思っているからこそ、ヒーコをやっているところもあります。

ちなみに、これはカメラなどの写真・映像に留まらない話をしているつもりですが、カメラにおいてはこの数年で専門家と趣味層が使う機材に変化がなくなってしまった点も、この問題を加速させています。

だからこそ、今回のようなオピニオンが出てきたというのはすごく良いことだなと思っていて、一億総クリエイター時代と呼ばれるだれでも作り手になれる世の中で、ビジネスの構造を正しく理解してマウントだったり貴賤につながらないようなコミュニケーションや議論ができたら良いな〜と思いました。自分はこの時代だからこそ、いま存在しているのもあるし。

Bの専門家もCの専門家も、BCを両立することができる専門家も、幸いお付き合いさせていただいているケースがあるのですが、誰かを貶めたりマウントをとるようなことにならないといいな、とあえて触れてみました。

ただ、いつの世も自分の専門外のことを専門家のように振る舞って語ることは恥ずかしいことです。(自戒)

おしまい。


最後に補足

  1. 広告代理店の隆盛と表現した理由。広告代理店は企業としてABCの機能を兼ね備えることで進化してきた歴史がある為。

  2. CA(サイバーエージェント)の躍進とは、Bの情緒的価値を捨てた徹底的なCの最適化による成長をAIによって実現している為。

この点に於いてはABCからC特化の時代になってきているという表現もできるかもしれません。

わたしはこういうものです


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Akiomi Kuroda / 黒田 明臣
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